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麦工房ブログ

2007年01月 アーカイブ

私たちは、アパートの部屋で作品を作ることも多かったが、そんなある日、
隣のマリアおばさんが血相を変えて入ってきた。

「昼間からこんなに明かりをつけて、直ぐに消しなさい!」

図面作成にはある程度の照度は必要だし、これが私たちの仕事であることを
説明してやっと納得した。
彼女は意地悪で言ったわけではなく、昼間から照明をつけること、
エネルギーの無駄使いは罪悪だと思っている。

生活の無駄を省き、身の回りのものを大切にし、出来合いの食品は
ほとんど買わない。
極寒の季節にならないと暖房も使わない。
そして、とても健康で病気一つしたことがないと言っていた。
このマリアおばさんが作ってくれるエスプレッソ珈琲が最高においしかった。

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こんな事もあった。
夜11時頃、3軒隣のいつもニコニコしているおばさん(名前は忘れた)の所に、
ニューヨークからのお客がきていて、煙草を切らしたと言うので一本あげた。
まるで、ちょっと前の日本のような、醤油や塩の貸し借りのような感じであった。
私たちは何とも言えないほのぼのとした気持ちでいると、そのアメリカ人が
帰りしなに、わざわざお礼を言いにきたのだ。
たった一本の煙草のために。

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日本でコミュニティーの大切さが叫ばれて久しい。
東京のような大都市に地方から人々が流入し、
その地に古くからあったコミュニティーを崩壊してきた。

そして今、大都市から溢れた人々は、通勤許容範囲の地域に住み着き、
その地のコミュニティーを崩壊させつつあるのではなかろうか。

それまで大都市で続けてきた、自分中心のライフスタイルで地域に入り込むと、
そこにはミラノに住みはじめた当時に、私たちが感じた面倒臭さや苦痛がある。

しかし、私たちがミラノを去るときに感じた、心にポッカリと開いた空隙は、
短い滞在期間ではあったが、その地域・人々との触れ合いを通して形成された
大切な部分だったのだ。



2年間のイタリア滞在を終え、
ミラノ・マルペンサ空港から飛び立った私たちは、
1時間半交互に、そして一緒に泣き続けていた。

日本を離れるときも、ビルマを離れるときにも、
私たちの眼に涙はなかった。

2年間に経験した様々なこと、出会った人々のことが
走馬灯のように脳裏を去来した。

「 Alle sette e quarto. Alla stazione Porta Genova.」
(午後7時15分にポルタ・ジェノヴァ駅で)

これがラッファエレ、イーザ夫妻と私達の合言葉だった。

2人は私たちのアパートの大家で、ミラノ郊外のコルシコという町に住んでいた。

ラッファエレは57歳、ショーン・コネリー風の好男子。
イーザは53歳、町であってもハッとするほどファッションセンスの良い
グラマーな女性。

私たちは週末の夜を彼らの家で過ごすことが、習慣になっていた。
ポルタ・ジェノヴァ駅で待ち合わせ、ラッファエレの車で彼らの家に向かう。

はじめは、なぜ彼らが私たちにここまで関わろうとしてくるのか
分からなかった。

彼らの間には子供はなく、私たちは、
その心に空いた隙間を埋める存在になっていたのだろう。

そのホスピタリティーは、毎回食事のメニューを替えてくれていたこと、
その作り方を全てメモして私達に残しておいてくれたことからもわかる。

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空港に送ってくれたラッファエレとイーザは抱擁の後で
「午後7時15分にポルタ・ジェノヴァ駅に行っても、誰もいないね」と
眼に涙を一杯にためて小さな声で言った。

こうして、私たちのイタリア紀行は、ひとつの終わりを迎えた。