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麦工房ブログ

すでに紹介したように、私たちは1900年頃に建てられた
5階建てのアパートの住んでいた。

ミラノ中央駅から近く、交通の便もよかった。
このアパートは低所得者用の者として当時建てられたらしく、
この周辺には同じようなアパートが並んでいる。

東京で言えば下町のような風情を今に残している。

そして、人々の内にも何か暖かいものが残っているようだ。
建物にはエレベーターが付いていないので、
年寄りたちにとって階段の昇降は過酷なものだが、
彼らは毎日のゆっくりした時間の中で一歩一歩、
さほど気にすることもなく上り下りしている。

若者は重い荷物を持った婦人がいると必ず手を貸していた。
ミラノには高級新興住宅地もあり、貴族や金持ちが住んでいる。
建物は最新の設備を備え、緑豊かな環境に立地している。
そこに比べるのもおかしいが、
私たちの住んでいたVia Padova 5(ヴィア・パドバ・チンクエ)は、
貧しいアパートでも、海外からの短期滞在者には経験できない、
場を介した人々の触れあいがある。

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私達がミラノに移ったのは、イタリアの暑い夏が終わり、
冬が始まろうとしていた10月のはじめだった。
Via Padova 5に住み始めたこの頃、廊下を通る人影があった。
ゆっくりと、行ったり来たり、私たちの玄関の前で小休止し、
またゆっくりと歩いてゆく。

それは2軒隣のピエロおじさんだった。
ピエロは足をひきずりひきずり毎日リハビリをしているようだった。

おじさんも奥さんのアンナも、私たちにはあまり愛想は
良いほうではなく、時々挨拶をすると返事してくれる程度だった。

毎日のリハビリが、ある時ピタッとなくなり、おじさんの姿も見なくなった。
おばさんも時々見るくらいになり、私たちは、心のどこかで気になっていたが
聞くチャンスもなく月日はあっという間に流れた。

2回目の夏の初めのある日、ピエロは車椅子に乗って廊下を
行ったり来たりしていた。
アンナはピエロの車椅子をゆっくりと押していた。
久しぶりにあった2人に挨拶する。
歩くことはできなくなっている様子だが、元気でいるので安心した。
毎日夕方になるとピエロは玄関の前で夕暮れの空を眺めていた。
買い物から帰ってきた私たちを見てもピエロは何も反応しない。
変なことはそれからもあった。挨拶しても視線がおかしい。
隣のマリアおばさんに挨拶したのに、ピエロが返事すると言った具合だ。

2回目の冬も近くなり、ピエロの家から家具が運ばれる日の少し前、
アンナはポツリと私たちに言った。
「彼はもう両足を切ってしまって、眼も見えないのよ」と。
おばさんの寂しそうな後ろ姿は今でも忘れられない。

そして、Via Padova 5の5階から2人の姿が見えなくなって、
また寒い冬が訪れた。